進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

配剤か?采配か? ⓡ

配剤・采配の責任の取りかたを観てみましょう。最後の晩餐はレオナルドの絵が有名だが、あなたが信徒であれば「晩餐で語ったイエスの言葉が何よりも重要」の筈でしょう?もちろん私は「そんなことどうでもいい」とお思いのあなたであっても受け留めていくスタンスを取っております。 
 
最後の晩餐で語ったイエスなる人物はホンモノだろうか?もしかしてニセモノ?これが一番大事でしょう?何か根拠があってあなたはコノ人物を本物のイエス・キリストと信じているのでしょうか?単に思い込み?偉い人がそう云ってるから?皆がそう云うから?そんなことはどうでもいいから?
 
「最後の晩餐」の絵に描かれた人物をイエスキリストと決めるには生命力が感じられない‥私はそう言いたいのではないんだ。元気なく描いたのはレオナルドがそう感じてたのであって・あるいは年月を掛けて自然が元気を無くさせたのであって、本物なら本物でいいが、それでホンモノなのか?
 
私の疑問にキリスト教徒が回答する義務はない。だが自分が信仰している神を誰一人も護ろうとしないで黙っている姿を子どもや家族は見ている。そのことを私は心配している。そんな事どうでも好いか知れないが、私なら信仰する姿勢を自分の子どもに恥じさせたくない。だから、本者なのか?偽者なのか?

 

 亡くなった人をオッチョコチョイ等と言って笑いものにするのを誹謗中傷です。生きている者に疑問を投げかけるのは人を尊重している姿勢です。私は人格を尊重する姿勢を大事にする。人を誹謗中傷する者はやっぱり己を貶めることに繋がっていくこと、少しはお分かりいただけただろうか?了

 
 
配剤か采配か 善悪  
  

配剤か?采配か? ⓠ

 

岩牢に閉じこめられた孫悟空の説話に触れたので簡単に説明しておきます。孫悟空唐代初期の中国を舞台に暴れまわった勧善懲悪の説話・西遊記の主人公として有名ですね。悟空が仕えた三蔵法師も仏さんも罰を下すから痛快で、私も幼い心に懲罰の痛快さを覚えた一人です。あなたもでしたか? ( ´∀` )
 
西遊記は勧善懲悪の思想を人類が生んだ初期の説話。人間以外の生物は善悪を理解できないし、人類の進歩は一朝一夕に図れない、それゆえ段階を追って進める。学校教育は幼少中の段階を踏むが、その教育の基礎に置くべき思想が善悪です。即ち畜生は采配を覚えて・人は配剤の妙味を覚える。
 
幼い心は懲罰の痛快さを覚え・懲罰の怖さを覚える。幼い人の柔らかい心は善悪のドチラへでも進む。ゆえに(教育の)思想が大事になる。善とは?悪とは?善悪を知らなければ人として産れた者であっても感性のまゝに生きるしかない。感性のまゝに生きるしかない人間以外の生物たちでしょう?
 
進級するごとに難解になるのは天の采配か?配剤か?人の失敗を喜びたい気持は(務めを果たせなかった)人を罰したい天の采配思想でないか?難しい務めを果たせるように進化するのは天の配剤に依るのでないか?天の配剤に幸せを期待し、天の采配には恐怖が用意されていそうで安心できない。
 
感性のまゝに育った孫悟空。仏の言葉も通じなかった悟空。その猿も徐々に進化して人としての善悪を知る。是は天の配剤に依るのでないか?生物は進化できる約束。進化しない道を選ぶ選択肢は勿論ある。いつでも選択肢の交差路に立っている生命群。善か悪か?畜生の善悪か?人の善悪か?
 
人は人の善悪を味わえる。そこらの猿に人の善悪を悟らせるのは難しい。それで悟空は岩から産れた変わり種なのかあ‥つまり悟空として生まれるのは広い太洋に落とした財布をさがすよりも難しい。私は人として産れた幸い(天の配剤)に感謝、産んでくれた親にも、教えてくれた人にも感謝。
 
人としての善悪の軌道に一歩進めたみたいです。「俺が好ければ善いんじゃあ」の善でなく、人としての善の前提条件は何だろうか?それを解くには「実践の哲学」によるしかないでしょうね。ともあれ、今回の課題、孫悟空罰を得て幸せの軌道に無事入れたロジックに瑕疵はないようです。了
 
 
善悪 配剤か采配か 

配剤か? 采配か?ⓟ

甘えさせてくれる親の躾け(=ケア)で育った子は悪さを警察官に咎(とが)められてふてくされる。況して只の他人に注意されると反抗的になり勝ちだ。可哀そうだけど真っ当なケアを受けなければ全うなオトナになれないんだ。見掛けはデカイ図体で一人前を装って見せても中身が伴っていないんだ。

もちろん、全ての甘えが悪いという事ではない。善いケアを教わらなければ知ることはできない。だったら善い手本をどう伝えるかだ。これは「親の背をみて子は育つ」と云うが、乳児でも覚えられる優れたケアに違いない。問題は親の背をみて悪く育つ子がいる。悪い手本の親に染まっている子。

人間の社会にはケアする人がいて・ケアされる人がいる。上下関係が強い集団(=采配のルール)では上の教えは絶対で、下は手本に合わせて染まっていく。上が過ちを認めなければ?そりゃあ、下も過ちを認めない。誰かの悪口を上が言って頬かぶりして済まそうとしている酷い集団もあるだろ?

悪口を言わないために覚えておかなきゃならない事がある。悪い部分を直して幸せになって欲しいと願っての発言は悪口でなくてケアと云う。オッチョコチョイだと批判した対象が亡くなってる人の場合は?亡くなった人の欠点を論(あげつら)ってるのは悪口でしかないだろ?それは批判以前だ。

悪口を云って頬かぶりする集団に入るとケアできていた人まで勿論悪く染まって・ケアも出来なくなる。その当人は昔憶えたケアの言葉を並べてみせても、その人の背を見て周囲は悪く染まっていくしかない。そんなこと無いとでも言えますか?盗みは駄目って盗っ人が教えても無理なようにね?

あなたはどうか知らないが私は、ケアを自分よりも弱い立場の人に施す目的で捉えない。人は強くあらねば駄目だ。私はそう信じる。例えば女性にはクサンティッペの強さを求めることになる。私のケアは人を強くする目的で為される。人は強くあれと願う私が采配を目論む訳があるまい?如何?

私を目の敵にしたい者は采配主義者にちがいない。その根拠は分るよね?私より強いお人は私を支えてケアする側に立つべきだ。私が困ってると思って陰から支えてくださる人はいらっしゃって、有難いことです。その上で私自身も己をケアしている。ケアって自他ともにできるのですね。 了



care  神対応大人対応か 
 

配剤か? 采配か?Ⓞ

前回、武田宏子教授の書評で私の考えの整理も進んだ。ここから気持新たに記事を展開したい。それにしてもcare(ケア)の感覚はいつ頃・ドコから出てきたのだろうか?是の解は難しく考えなくて好さそうですね。犬・猫を観ても親は仔を甲斐甲斐しく世話し面倒を見ている。是もケアでしょ!?

犬の親が仔の面倒を見るのは天の配剤だろうか?天の采配だろうか?天が命令を下して仔の面倒を見させているなら采配に違いない。仔の面倒を悦んでる親なら天の配剤に違いない。あなたはお子から幸せを得ているだろうか?それともイヤじゃと思いながら仕方なく面倒を見ているだろうか?

ご自分のお子を心から授かり物と想えるあなたは幸せです。天(=神)をじているなら有難い贈り物ですね。有難くない・迷惑なヤツをもらったとお想いなら筆舌に尽くしがたい苦しみが伴う。そのような酷いことをするは怖ろしいのでありませんか?逆らえば何をされるか分ったもんじゃない。

怖ろしい神はを喰らわすよね?罰はのない者に下されることはない。分る?縁があるから下される。酷い会社に勤めると罰を喰らうのと同じです。その神は己の信者に罰を喰らわすが近づかなきゃ罰はない。( ´∀` ) あなたが誰かに罰(害悪)を下したいと想わないならあなたは善人ですね。

罰を喰らいながら育った子は罰するを身につける。罰を仕方ないとか当然とか想う信者は罰する癖を覚える。だから誰かを誹謗しながら反省することも出来ない。他者の誹謗・中傷は己自身を傷つけるロジックはお分かりになっただろうか?己が子にも罰する癖を身に付けさせたら駄目なんだ。

ケアと云っても善いモノと決まったものでなく、悪いケアがある事を述べました。仲よしの友だちと過ごしているとき悪いケアをしてないか、私たちは用心したいものですね?どんなに嫌いな人の悪口も己と身近な人たちに跳ねかえってきて害悪となる。大事な人を傷つける怖い神は邪悪だよね?

格言に「一難去ってまた一難」とあり、中国に「塞翁が馬」とある。これらは同じ意味か?違う意味か?知識を問うているのではありません。想像性に問うているのです。水たまりに入りたがった子もやがて入らなくなるのをどう考えますか?解は幾つもあるのに正解でなければ罰せられるなら?

2つのフレーズに私が想うこと‥天の采配は「好いことないなあ、好いことあってほしい」だし、天の配剤は「いつも天に護られてる、だからって甘えちゃならない」ってなる。この「天」を大好きなお母さんに置き換えてかまわない。己の人生を誰かの「正解」に委ね・失敗して、罰せられる。

結局、天の采配に隷属するか?天の配剤を信じて「大人対応」していくべきか?ドチラかになる。誰かの神対応を待つのも・大人対応するのもあなたの自由です。大人対応するなら他者の知恵・権利を蔑(ないがし)ろにするべきでない。断崖絶壁で他者を傍観するよりは声を掛けたいと私は思う。

天の采配と神対応他力を頼みとする点で同じだし信頼できる他者に付いていくのは気楽で安心。天の配剤と大人対応は共助の精神を社会に広めることになります。それでドチラが果たして良いだろうか?民主主義・人間主義は大人対応を佳しとするように思えますが、如何でしょうか? 了

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配剤か? 采配か?ⓝ

care(ケア)について私の感覚を2遍述べた。それで世界はケアをどう捉えているのか?書評「ケアするのは誰か?」を「twitter/読書のページ 」に見つけたので下敷きにさせていただく。本は難しそうだし・時間も掛かりそう、なので今回は書評に学びます。評者-名古屋大学(政治学)の武田宏子教授。

政治学者の教授のスタンスはケアを民主主義・政治問題と捉えて不思議はない。そして私はそこの市民。政治に無関心ではないが、私は市民としてどう振舞うかを第一義に置くことになる。民主主義社会の長所は誰も傍観者にならずに済むことだ。すなわち政治と市民と連携したい私は日本人。

もちろん日本は民主国家であれば誰一人も日本の文化を受入れる義務を課されない。私の文化は日本の「天の配剤」に染っている。そして誰であっても天の采配に染って構わない。配剤は他者を支配しない思想であり、采配思想は日本で他者を支配できないが、ご自分を縛るのはご自由なのです。

ケアについて他者との係わりの重要性をお述べのようだ。政治は公助を担い・社会は共助・そして自分は自助という感覚は私も分る。公助は義務、共助・自助は思いやりという感覚も分る。結局、ケアには義務と思いやりの2種ある。そしてケアは必要が満たされて完了することにも納得できる!

私的には公助は最低限が善い。この最低限の保障の担保に所得税が考えられる。共助によって災害・事件の減少を期待したい。自助によって面白い暮しが出来る。共助と自助の連動で誰もが豊かな暮しを望める。公助で最低限の暮しが保障される。私の猫星の憲法の全体像はこんな感じかな🐈

「政治こそがケア実践にのりだすべきだ」という感覚はアメリカ・西欧に共通するかもね。黒人が率先したら酷い目に遭わされた歴史を思い出す。ローザ・パークス女史は公民権運動で迫害されたし 酷ければ撃ち殺されるからね。その点、私たち日本人は何でも自由に出来る法律を持っている。

この素晴らしい法律を有難く思えるのは私が天の配剤を信じているからのようだ。天の采配の信者は他人(の名誉)を護ろうとせず・人間を誹謗しがちのようです。法律を守ることで悪党が動けなくなるというロジック(論理)が理解できないのかな。人を信じる人だけが法律を守ろうとするようだ。

ともあれ、米国では法律が換わっても人は付いていくのだろう。如何にして法律を変えるか?米国の救いは約束を守ろうとする文化が根付いていて、その為の話し合い文化も十全に機能しているのを感じる。話せば分る⋯米国の文化。あなたのはどうか知らないが、私の文化も「話せば分る」です。

著者・岡野八代氏の言い分はよく分る。分るが私は喜べない。その根拠⋯政府が・社会が・国民がその方向で動き出すまでボーッと待っていたくない。棚ボタを食べたことなく食べたくもない。仕事があれば社会保険に縋りたくない気持ちが私は強いのです。ま、新型コロナ絡みなら仕方ない。了


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配剤か? 采配か?ⓜ

しばらく休憩しようと思ったが、今朝のnhkあさイチトータス松本(敬称略)が出ているので書くしかないと思ったのはナンデだろう。これはやっぱりケア(care)されて私が反応したのです。松本が演じるおちょやんの父親は基本的に私が嫌っている事情は「考/雨にも負けず❿」で述べたとおりです。私が嫌いという場合の意味‥あなたに理解できるか否か私は知らないが、ともあれ人の行為の結果に(私の)感性反応する。この場合、私の結果は過去でなく未来でした。おちょやんの父の行為の結果に日本中の視聴者は喜んだか? 私と同じ反応を日本中の人も少し遅れて起したようです。人は同じです!

私が何を言いたいかお分りにならないかも知れない。私は底辺の生れ、それがお分りにならない方は私よりも上位の生れって言っているのです。幸せに産れたい人は多いから「私より上で当然」とお思いになる人は多いだろうな。「己の底辺生れ」を当然のように言える私って変ってません?笑 誰もが山の天辺(10号目)へ向かってる中にあって、底辺をウロウロしてた日にゃ山の制覇はいつになる事やら、そう思えてノンビリしてる気分になれない人の気持は私にも分る。ま、岩牢に閉じこめられた孫悟空の気分も恐らくそれと似ていたのでなかろうか!? みんな元気なんだ。元気も財産です。

行ったことのない世界の状況は誰も知らない。当に今週のドラマのお題がそれだが、テルオ役の松本はテルオの状況によく通じる‥私にはそう思えて興味深く思った。松本が演じるテルオだから松本流テルオで当然でも、演じているテルオが駄目な親父役にぴったり嵌ってる。ナンデやろか。笑 もしかしたらマグレで上手に演じはったんやろか?そんなことは無いナイ。結局、知ってて演じはったことになる。知らん世界のことを知ってる‥真実は以前に知る機会恵まれたからやろな。ここでは敢えて「恵まれた」と表現しておきます。それはいいが、底辺までは未だ御存知ないようです。

恵まれたことを感謝している人に逢うたことは私は余りありません。恵まれていないと世間から思われてる人で恵まれたと思うてる人は増えた気がする。だから恵まれたか恵まれてないかは人ソレゾレでしょうね。底辺をも味わって知ってこそ・私のさん。笑 あなたの場合は如何でしょう?ともあれ、険しい山を登っていても扱けるだけで済んだらいいが、地獄の谷底へ落ちるかも知れません。松本演じるテルオは「なにも考えんと生きてる」にしても、悩みなく過ごせる内は「儂はそれでエエんや」で済ますかも。そのテルオは松本の過去やろか今やろか?あの芝居は過去やろな。笑

産れたのが底辺でも・天辺でも・中途でも、堕ちるのは一瞬かもね。堕ちるのが一瞬でも、上がるのも一瞬なら人生を愉しめますね。私の仏さんは一瞬で地獄へもドコへでも行からっしゃる。そうなるともう自在ですからね、旅自体が愉しいでしょうね。その点、不器用な私は人の活躍が楽しみ。「後塵を拝する」と言えば過去も今も悪い意味で使われている。私は未来形が好みですから(全ての人の)後塵を拝して元気を得る。同じ「拝」でも読み方は正反対ですね。是は生れの差かも知れません。全ての人が私の上位であれば羨ましく思う知恵さえ具わっていない。日々拝するばかりな私。

結局私にとって、後塵を拝するなかで有難いcare(=ケア)を味わってきた気がする。底辺に落ちてくるのは「有難いおむすびころりん」ですから、枕に手ごろな小岩だったり・渋柿だったり、ま、誰もあまり見向きのしないモノばっかりかも知れません。それにしてもケアはとっても有難いものですね。了

(最後に)
私の仏さんは神対応を期待しないようで、それで私も大人対応なのかも知れません。


神対応大人対応か

配剤か? 采配か?ⓛ

以前、いじめスペシャル!?❞ ってタイトルの記事を書いた。「神対応」という言葉が使われた。神の助けを願う状況は私も他人ごとに思えなくてよく分る。神がワルを遣っ付けてくれたら助かるのにって想いは分る。だけど私には神よりも「大人対応」が良いように思われた。あなたはどう?ま、あなた好みの神がいるなら神対応を願うべきかもです。私好みの神が現実にいたら私はその神の子分に成ります‥ってコレ、ギリシャ神話じゃありません?笑 ( ´∀` ) ギリシャ神話の結末はあなたもご存知でしょう?トンデモナイ世界になってパンドラの箱みを託した人間でしたっけ!?

常識的に考えても、科学的に考えても、人間好みの神はお勧めできませんって。人間の感情を満たしてくれる神がいたらどうなると思います?ほらぁ、イソップ寓話にあるでしょう!? 王様を欲しがる蛙の感情を満たした結果は?だからねえ、あなたの感情を満たす王(神)の寓話。ホント恐いよねぇ!?
だからね、私が理路整然と知らせても(人の)感情を満足させられないのです。(あなたの)感情は「俺は気をつけてるから大丈夫」って正論の上を行きたがる。感情ってそういうモノです。私も例外ではありません。感情を刺激する美味しい食べ物・面白いことに囲まれていたい。だからどうする?

感情のコントロールは不可能だな。だからコントロールしないと私は決めている。そうなると本音の結果だけが出る。本音だと無理しなくて・楽ちんで、もちろん私の進路に闇はない。結局、持って産まれた私の財産を使って生きる人生だから贅沢は考えられない。こんな人生‥満足できるか否か? 満足できる派と不満派に分れる。肝心は「配剤か采配か」です。それで現代人の傾向を見ると欲を出す人と流れに身を任す人に分れるようだ。私の傾向はと言うと「配剤×欲」だな。言うなれば4種の鉢の一つに私の種子を蒔いて育てている感じ。人はソレゾレに⋯あなたはあなたの好みです。

私の箱庭は私好みに彩られている。人ソレゾレに彩られるお庭でしょうね。そうするとcare(=ケア)してくれる人が現れるから面白いじゃありませんか🎶 だから人生はヤメラレナイのでしょうね。ケアと言うのは世話することですよね!? いやなにコレは、新聞で読んだばっかしの受け売り情報。(#^.^#) 了

神対応大人対応か