進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

配剤か? 采配か?ⓚ

宮澤賢治の手帳に載っていた詩を巡ってヒドリ論かヒデリ論か知らないが持上がって久しい。原文は「ヒドリ」だから「ヒドリは間違い」と誰も言い出さなければ論争は起きなかった。とは言え、起きてしまったモノは無かったことに出来ず、それなら論争を役立てて価値づけるのが最善の途だ。詩を読みながら不毛のままに捨て置いて良い筈はない。不毛の論も役立てる人がいる所で価値が具わり・肥沃で充実した世界へと転換・生れ変わらせていける。すなわち雨降って地固まる。喧嘩して却って理解が深まり仲良くなれる私たち人間だ。だから日本人はやっぱりケンカに慣れなきゃ‥だよ。

詩・雨にも負けずの原文を弄った人物のお陰で、入沢康夫がヒドリ論を著せた。そのお陰でヒドリでもない・ヒデリでもない、もっと凄い別のナニかが見つかるチャンスが生まれたのかも知れない。未完の詩を立派に仕上げるのは未来の若者たちかも。もしか、賢治は仕上げを若者に託したのか? 既成の詩人も良いが、感傷に浸っているだけでは駄目だ。現状を変えられないようでは駄目だ。天候を嘆いているようでは駄目だ。悪習と戦い・現状を打破していくのは未来を生きる青年群に違いない。その若い生命は日照りよりも日取りよりも もっともっと厳しい戦いを制していくのだろうな。

ヒドリ?何のこっちゃ。入沢康夫のヒデリ論がなければ私の中に日取り(ヒドリ)は生れなかった。慰安婦問題は韓国だけじゃない。日本中にあった悲劇。借金のカタに取られ・慰安婦になる約束の日取りがきた娘たちは泣く泣く連れていかれたことだろう。日照りの後の真の恐ろしさ=日取りだったのかも。

宮澤賢治の「雨にも負けず」は此処で了と致します。 なお、雨にもの関連記事はブログ内の「記事検索へ 未完/雨にも負けず 入力することでお読みいただけます。拝。

配剤か采配か 

配剤か? 采配か?ⓙ

宮澤賢治の原文「アメニモマケズ」の事件について、「ヒドリ」支持者たち感傷的な反応か商売しかしないのは残念です。感傷や商売半分では理解できません。ま、私が述べることは殆んど終ったようですから、もう少しだけ書いておきます。ここの主題は飽くまでも「配剤か?采配か?」ですからね。(*^-^*) 宮澤賢治誹謗の書籍を買って読めば分かると云う人もいる、悪口書いたら売れるかも知れない。入沢康夫の言うことだから正しいって感覚も‥、どれもヒドリ擁護論にならない感傷論。「ヒデリ」がいいって祈るようなコメントもある。だけどやっぱり根拠が必要ですね。 https://ihatov.cc/blog/archives/2010/06/post_709.htm

そもそもファンは感情的な存在が多いよ。好き・あこがれ・自分も同じようになりたい。そういった感覚のファン。正しいからファンになった訳じゃない。本物だから支持してるのじゃない。好みに合うから一票あげる。ファン投票ってそんなものでしょう?感傷・感情に流される人はお客さん。だから「ヒデリ派」は宮澤賢治の詩を分って支持してるのじゃない。賢治をダシにしてワイワイ浮かれ騒いでいるだけ。それが必ずしも悪いとは言わないが、賢治を弄って騒いで帰る場違いのお客さんを増やすことだけに忙しいイーハトーブセンターなら茶飲み場の提供者‥みたいな存在???

そもそも、宮澤賢治の「雨にも負けず」は完成品なのか?完成品なら好きに批評したらいい。推敲途中であれば間違いとした説明責任をどう取るのかな?この程度の常識のない者が超一流の詩人だろうか?返事出来ないだろうから逃げるしかあるまい?それとも潔いヒデリ派は1人でも居るかな?半端者が賢治の推敲中の詩を添削したのだろう?半端者を信じたいのはヒデリ派の勝手ですよ。半端者が詠んだのが原文だってことなら、ヒデリの詩は半端者が作った剽窃という事になる。その半端者の名前は「偽・宮澤賢治」に違いない。ホンモノの宮澤賢治の原文は「ヒドリ」になっている。

偽・宮澤賢治は「ヒドリ」では駄目だと決めつけたんだ。その根拠はナニ?地元民のヒドリ論を論破したって?そいつの頭は狂ってない?地元民を論破したら「ヒドリ」でなくなる説明責任を求める。これだけでもヒドリ誤り論のお粗末さは明々白々としている。馬鹿馬鹿しい。これは賢治の詩だぜ。この意味のない・価値のない・害のみ多い「ヒデリ」擁護論の本を買えって?買ってやったら幾らくれるのかい?偽物で金儲けしようって魂胆なのか?そのお先棒をイーハトーブセンターが担いでいるのか?それだとトンデモナイ団体だ。宮澤賢治の誹謗記事を拡散したセンターで間違いないか?

ヒデリ派・イーハトーブセンターの読解力がお寒い?本音で他者と語る人は相手の気持ちを読めるんだよ。それを訓練の賜物という。本音で語らず耳ざわりの好い言葉を発してる人は相手の気持ちを読めなくなる。読解力も同じ。賢治の想いを酌む訓練が出来てないから読解力も付かない。分る?推敲中の原文を見たら、私も読むよ。読んで舌頭に千遍も転がさないが数回転がす。賢治は「ヒドリ」と書いてある。「ヒドリって何? 賢治は何を言いたいのかな?」そう考えるが、半端者は「理解できん。俺に理解できる言葉・日照りで好いや」って思った。ヒドリは間違いで好いや‥かな?

賢治は間違い坊主だ。だから間違った筈ってのも狂った頭が生出した屁理屈・妄想。賢治を見下してるから賢治が馬鹿に見えるのです。ヒドリ・ヒドリ・ヒドリ‥亡くなるまで何万回・何十万回唱えただろう‥私ならそう考える。ヒドリに換わる表現はないか?ヒデリでは弱すぎる。あなたなら?ヒドリでも足りなければ‥それなら何が好いだろうか?そう考えて柔軟な子供たちの案を募るのもアリだろう。子どもたちの知恵を生かすのは「天の配剤」に通じる。ヒドリを切り捨てる上から目線は「天の采配」に通じる。私はそう思う。イーハトーブセンターの遣りかたは #配剤か采配か ? どちらですか? 了

配剤か采配か  未完/雨にも負けず

配剤か? 采配か?ⓘ

直前の記事で「善には善果、悪には天罰」を紹介した➽このフレーズは間違いだ➽だが役立てられる➽だから書くことにする➽役立てることで天の配剤証明にもなる➽即ち天は物事を適切に配している 🌸 人の言葉は行き違う➽だからこそ対話だ➽結局理解し合えて➽信頼関係になれる 🌺 善・悪・罪」を知らずに染まるとも既に述べたが、人もやっぱり動物ですね。好き・安心できる・やさしい‥そんな理由で始まる関係。理屈は後から追いかける。約束破る・誕生日忘れる・仕事を言い訳に誤魔化すetc⋯。みんな似たようなモノですよ。怒って・喧嘩して・許し合えばいいんだ。

ケンカはいけないって決めつける人の真っ当な根拠を聞いたことない。ケンカ出来ない相手を好きにならない事だが、本音を秘めて生きていくのはツラいぞ。本音を出した時は危険な状況に成り勝ちだし、見せかけの仲よし関係は精神衛生上も良くないし、だからやっぱり喧嘩に慣れることだな。自分のなかに被害者意識を溜めこまないことだな。加害者意識のほうがまだマシ。好きな相手に毎日感情を露わに見せてると加害者意識が高まる。もしか、私のほうが踊らされてるのかも知れないが、少々の罰は受けても仕方ないと思ってたりする。ま、私は罵られるだけで済んでるから幸いか。

私の想像だが、ソクラテスも常々から加害者意識を持っていた気がする。当時の男としては貴重な加害意識だと思う。そんな夫をクサンティッペは愛したことになる。世間的には評判の仲の悪い夫婦かも知れないが、不幸な夫婦たちの言うことなど気にしなかっただろうな。「名より実」だよ。加害意識は罪意識と言えなくもない。罪は「仏教・キリスト教で、その教法を破る行為。罪業(ざいごう)」(広辞苑)とある。キリスト教だと天の采配を覚悟すべき犯罪で縮み上がるのだろうが、仏教では天の配剤となる。そしてソクラテス夫婦は幸せだった。これって不思議でしょ?思わないか?

キリスト教なら采配に完璧に従がうことが最上とされて当然だが、 ソクラテス夫婦も私ら夫婦も完璧には程遠いデキだと思いません?(笑) その不出来なデキの人間が仲良く幸せに暮らしていたら‥どう思います?世間的には贅沢してるで無し。私は完璧でなくていい。但し真面目・真剣です。了

配剤か采配か  未完/雨にも負けず

配剤か? 采配か?ⓗ

天の配剤をもう少し見てみよう。広辞苑には「(天の配剤は)人の資質などにおのずから調和がとれていること、また、あらゆる物事が適切に配されていることなどを、造物主のしわざと見なしていう語」とある。即ち誰にも世界は平等に出来ているってことです。これで誰にも不満がない筈です。 同じく三省堂/新明快国語辞典「とても偶然(人間わざ)とは思われないほど、世の中や運命がうまく出来ていること」とある。表現は異なるけど世界は誰にも平等に出来ているのです。インターネットで更に調べると違うのがある。なんと「善には善果、悪には天罰」です。善/悪/罰って何なの?

「罰」の意味を辞書が知らないのなら悲しくも恐ろしい。知っていて書いたなら邪悪の確信犯。天罰は「天の采配」を振りたい権力志向の者を喜ばせるだけ。賞罰は平等だろうか?勿論、善悪にも平等性はない。つまり不平等な世界を目指す邪悪な思想がインターネットの中で息巻いているのか!? 「配剤と采配を誤まって日本人に憶えさせてどうする」と言う私は日本文化の伝承者のスタンス。それなら誤まって憶えさせる者の文化はドコだ?天罰=キリスト教文明圏に違いない。強者の言葉が最優先される文化。強者と云えば罪にされ、免罪と云えば罪が無くなる不平等な文化。いかが?

誤解の無いように確認しておくが、ソレゾレの国家の進路はソレゾレの国民が決めること。即ち私が言う邪悪は日本の文化に照らしてのモノ。ある国が悪魔崇拝を選ぶのであればそれはその国民が選んだ進路・文化で自由です。日本での悪魔崇拝を私は認めないと言っているのです。 世界は染まる。だから石も水も空気も染まる。同じく生き物も染まる。鳥は産まれて最初に目にした者に染まって仲間・家族と思いこむ。あなたも私も染まり、命も染まる。を知らずに染まるのです。何に染まるかで進む進路は定まる。その進路に則って進むとき仲間から受入れられる。

桃太郎の集団に入れば何も考えることなく鬼退治に向う。尤も猿犬雉の知恵は己が生きることだけに使われる。宮澤賢治を貶める思想・集団に所属すれば人間を貶めて・反省できない心に染まる。それはオームに参加して訳も分らずにサリンを撒いたような感じかな。それで私たちはどうする?黙って見ているのが良いのか?肝心のことに触れずに仲良く過すのが良いのか?それなら私のように注意を喚起するのは駄目なのか?人間性を信じて語り掛け・問い掛け・対話しようとするのは駄目なのか?もしか、あなたは無駄だとお思いか?人間は信じるに足りない存在だと見るべきなのか?

人間を信じない人・集団は注意喚起せず、語り合おうとせず、疑問を解こうとしない。お分かりだろうか?宮澤賢治を貶める根拠をどうして述べない?賢治を貶める集団は人間を信じない心。過ちを直すより、人を罰することに熱心になる。遂には天の配剤を捨て、天の采配の実行集団と化すか? 私たちは人を見下し支配する思想・信仰に取込まれてはならない。他人の欠点を探して貶めるのは采配するのに都合が好いかもしれないが、それは自分自身を貶めて構わないと宣言しているのと同じこと。あなたの伴侶・子供を貶められるのはイヤでしょう?明日は我が身‥は悲しいですね。了。

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配剤か? 采配か?ⓖ

ここまで私は「猿や犬の信仰で人は救われない」と繰りかえし述べてきたのがお分かりになられたお人は幸いです。そのことを分っているツモリの人は現実に多いから、多くの子どもたちが不幸に巻きこまれていっている。今回、ひとつの具体例として宮澤賢治を卑しめ貶めている集団を挙げた。イヤなことは気にしないで忘れて過ごしたら?それでその場は盛りあがる。たとえばイヤなことをお酒で紛らわしている人はとっても多い。だけどイヤなことが無くなったのでないから、朝になったらイヤな一日が再開する。そんなツマラナイ日々を過ごしている人は周囲にも多いでしょう?

分っているツモリの人は、即ち天・・・有頂天ですから他者の意見に耳を貸さない。そのような者が宮澤賢治を貶めて、己を賢治の上(の天)に置く。かれ等は天の声を発して・天の采配を振って見せても、じつは子供や純真な人を惑わし・賢治の想いを踏みにじっている事にも気づけない愚かさ。仮に、桃太郎に従っているエテ公に力がついても桃太郎になるだけ。このエテ公が悟空かな。有頂天のエテ公は天下をとったツモリの鼻息で世界に君臨・覇者になろうとする畜生だ。悟空のその後の展開はあなたもご存知のとおりです。東洋の叡智は采配でなくて配剤しとした気がします。

天の采配(信仰)は覇道であり・他者を畜生扱いすることになり、己を上位(天)に上げようと目論んで・他者を辱しめ・貶め・卑しむことをも恥じることがない破廉恥・恥知らずになる。あなたのお子をその畜生に育てるべきか?他者の尊さを語れる人間に育てるべきか?因みに私の子・伴侶は人間です人間に生れてきて畜生レベル(猿・犬・雉)の低級な生き方・考え方をするのは余りに愚か。その愚かぶりを畜生の信仰と呼んで構わない。それなら人間の桃太郎はどうなるの?人間が畜生を道具にしたり、喰うのは仕方ない。動物を食べたくなければベジタリアンがいい。それは天の配剤だろ!? 了。

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配剤か? 采配か?ⓕ

天の采配、仮にキリスト教徒は敬虔であろうとするだろう。天は神だが具体的には御主人様のこと。結局、天の采配を信仰する集団では天(=主人)がイチバンだ。その社会で主人から密告せよと命じられたらどうする?敬虔な人々は主人の采配に従って己が父・母・子・兄弟姉妹・友の弱みを報告する。敬虔(けいけん)は西洋の徳目の1つで忠誠・崇敬・孝の心。イチバンに尽くす対象(御主人様)への敬虔の心は他(者)を思いやれず・省みることもない奴隷の振舞い。結局、奴隷として過ごす日々。イチバンが決まった猿・犬・雉たちは主人(桃太郎)の采配のままに鬼を敵視したのですね!?

あなたが仕えるイチバンが人間を敵視する采配を振ったらどうなさいます?あなたは「人間を敵視しないよ」と弁解・ゴマカシて、その場逃れをしますか?そんなあなたであればこそ、人間を敵視する嵌めになる。弁解・ゴマカシているようでは低レベルの猿・犬・雉の信仰と大して変りません。ソクラテスクサンティッペの夫婦が信じあい・支えられあって過ごしたことはお分りでしょうか?難しいですか?自発能動支えられるのは相手任せ⋯ね(#^.^#)。黍団子で子分を手に入れた桃太郎の主従関係のドコにもは見当たらないし、子分は黍団子の義理なしに親分を支えなかった。

自発能動の信は相手が信じるかどうかでなく、自分が信じるかどうかだろう。ソクラテスは妻クサンティッペを信じた。クサンティッペソクラテスを信じた。また自分が支えているという自負は結構だが、自分は支えられていると信じているかどうかだろうな。だから人間を信じるか否かが大事になる。ここでは人間を人間性と言ったほうが分りやすいかも知れないが、却(かえ)って分り難くなったかなぁ⋯。人間(性)を信じる人は自分自身を信じる。他人を信じない人は己をも信じない。この人間不信の空気に染まると、たとえば宮澤賢治を馬鹿にして辱しめ貶めるような事態も起こる。( *´艸`)

人間を信じない者の信仰からが生れたと言っても過言(かごん)でないと思う。罰するためにを考案したとも考えられる。あなたを好きな人があなたを罰したいだろうか?あなたの罪を考案したいだろうか?結局、人間を好きでない・信じない者が人間を裁く法を考案したといえるのでないか?人間を裁く悪しき法に依るとき、例えば宮澤賢治の思案中の未発表の手帳は盗み読みされて・間違い呼ばわりされて・愚か者呼ばわりされ・遂にはインターネット広報で拡散された。この破廉恥な行為を認めたくないのは分るが、拡散したからには自分等の行為をほお被りかぶりしてはなるまい。

猿・犬・雉(きじ)などの低レベルな信仰であれば誤魔化し・逃げて・済ますかも知れないが、ヤハリそうなのか?黍団子(きびだんご)よりも美味しい饅頭(まんじゅう)を喰わせてもらえるとでも思って期待したのかしら? 幼児・子供にどれほどの悪影響を及ぼすだろう。困ったことです。今回はココまで。了。
配剤か采配か  未完/雨にも負けず

配剤か? 采配か?ⓔ

私のブログは建設的批判の発信道具ですが、ドンナ記事も書いておれば誹謗・中傷にならない用心からコメント欄を設けている。これは私のポリシーであって他者に同調を強要するモノでなく、質疑・応答によって間違いは直せるし・しかも互いを高め合うブログの使いかたに満足している私!

1月6日のnhk視点・論点国学院大学院の新谷尚紀教授が「正月とは本来どういうものか」と語っておられたが、日本では人々の触れあいの中で文化(風習)は目まぐるしく変わってきたようだ。(激変の善い悪いは別にして)日本の文化は人間関係の中で激しく換わるのが顕著に思われて面白かった。

い変化も・い変化も考えられるから安易な変化には否定的になりやすい科学者や哲学者だろうな。科学・哲学の姿勢は洋の東西を問わないと私は考えている。それなら日本人は科学・哲学が出来ないのだろうか?そんなマサカ!? もしか、多くの日本人には天の配剤が擦りこまれている?笑 

天の配剤・・・天は物事を適切に配するって意味。だったら天(神さま)は悪意のない人を悪いようにしないのじゃない?これ日本の文化。笑 日本人は元々神様を好きなんじゃない!? だから神さまは悪いようにしないって・・・母親に甘える感覚に近いかもね。ところが西洋は違う⋯天の采配かな

現代日本にも天の采配って云う日本人はいる。西洋では敬虔(けいけん)なクリスチャンは地獄に堕ちないようだ。もちろん、哲学や科学の立場はこれを否定することになる。キリスト教が国教みたいな西洋では殆んど全員がクリスチャンだろうけど、科学者・哲学者の思想は微妙に異なるかもね。

天の采配とは天(神)が指示するって意味。だから神さまの指示に従わなければどうなる?罰を喰らうのじゃありません?奴隷が主人の命令に従がわなければ罰せられて鞭打たれても仕方ない。天の采配(命令)に従順なのが敬虔(けいけん)でしょう?日本の神様は「俺に従がえ」なんて言わないよ。笑

天の采配は元々の日本文化になかった感覚。それで誰が喰らわすって?旧約には天使が罰を喰らわす場面が出てくるようだ。天使とは神の拳固(げんこ)か 僕(しもべ)か⋯私は知らないが、神の代理として痛い目に遭わせるお方だろうな。神の代理が打ちかかってくるのだから否応(いやおう)なし。

神(の代理)がやることに間違いはないとされている。このキリスト教から生まれたのが敬虔なクリスチャンと哲学者なのが私には興味深い。両者は対立する概念だからです。例えば哲学的にはナザレのイエスは無罪だが、キリスト教的には有罪・・・だから殺された。イエスは殺されて当然なの?

配剤か采配か  未完/雨にも負けず