進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

ボランティア(7)

(上記の記事の引用です)
重要な公共の利益のため、心をこめて大きな犠牲を払う米国人を、私はこれまで目にしてきた。そして、必要があれば、米国人はほとんどの場合、誠意を持って互いに助け合うものだということに気付いたことがこれまでに百回もある  アレクシ・ド・トクヴィル(1835年)


上記・トクヴィルアメリカ社会に「徹底した平等性」を観たフランスの政治思想家らしい。私のは記事からネット情報の受け売りであれば、私の理解力で述べるしかないが、トクヴィル徹底した平等と云ったとして、ヘタをするとトンデモナイことになると感じた。世界は平等に出来ていないではないか。陽の当らない土地もあれば、ジメジメした土地もある。元気に動き回れる人もいるが、全然動けない乳幼児もいる。オリンピックは特定の特技を持った者同士の競い合いだが、そこにも平等は有得ない。平等を公平と言い換えたところで条件が同じになる訳ではない。そもそも平等でなくて良いじゃないか?

平等論(≒公平論)は強者を利する不公平を広げる」私でもこの程度は言える。トクヴィル犠牲を払う米国人を無数に見てきたのだろ?犠牲を払う…傍目(はため)には犠牲に見える行動をするアメリカ人は多いと言っている。私は犠牲を払う行為を素晴しいと思わないが、誰かが助かる行為が出来たら素晴らしいと思う。だから誰かに「犠牲を払おう」と思わせる言動は害悪に通じるから私は断固反対する。「目的のためには犠牲者になろう」が好いのか?「お国のために特攻機で出陣します」って思想だぜ?この思想を受入れた日本の国民はどうなった?支離滅裂の「命題・解」等は私でなくても受けいれまい

200年昔を生きたトクヴィルに現代の私ほどのプランを求めるのは当たるまい。私たち現代人は世界の知性の最新プランを聴いて知っている。それならトクヴィル批判をする意味は無い。トクヴィルに関して意味ある批判を考えるなら、そして私の哲学に拠るときは「トクヴィルの論の甘い所へ虎視眈々と狙いを定めるへ向けて喧嘩すること」と導かれる。ケンカには目的がある。目的を持たずに喧嘩に臨むから特攻隊に志願させられる破目(はめ)になり、アメリカ兵の上陸に対して日本軍が取った行為「同胞の婦女子を防空壕から追い出し・断崖絶壁から投身自殺させ」等々、数え上げたりキリがない。

いかなる「命令・下(げ)」であっても己自身に被害が及ばなければ遣り過ごしそうと無批判に従がう日本人の習性を厳しい現実が起きたら具体的に観察できる。だが「痛い目に遭って目が覚めました」では実害が大き過ぎる。結局、他者の痛みを分ろうとする思想・宗教が重要になる。ここにボランティアを深く考える意味もある。「ボランティアは美しい。だからボランティアに参加する自分も美しい。」という屁理屈を言って楽しむのは罪がないかも知れないが、その裏で泣く人たちがいることを忘れては真っ当なボランティアにならないのでないかな?仮にも従軍慰安婦の行為を美しいで済ませてはなるまい!? 了。