進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

配剤か? 采配か?Ⓞ

前回、武田宏子教授の書評で私の考えの整理も進んだ。ここから気持新たに記事を展開したい。それにしてもcare(ケア)の感覚はいつ頃・ドコから出てきたのだろうか?是の解は難しく考えなくて好さそうですね。犬・猫を観ても親は仔を甲斐甲斐しく世話し面倒を見ている。是もケアでしょ!?

犬の親が仔の面倒を見るのは天の配剤だろうか?天の采配だろうか?天が命令を下して仔の面倒を見させているなら采配に違いない。仔の面倒を悦んでる親なら天の配剤に違いない。あなたはお子から幸せを得ているだろうか?それともイヤじゃと思いながら仕方なく面倒を見ているだろうか?

ご自分のお子を心から授かり物と想えるあなたは幸せです。天(=神)をじているなら有難い贈り物ですね。有難くない・迷惑なヤツをもらったとお想いなら筆舌に尽くしがたい苦しみが伴う。そのような酷いことをするは怖ろしいのでありませんか?逆らえば何をされるか分ったもんじゃない。

怖ろしい神はを喰らわすよね?罰はのない者に下されることはない。分る?縁があるから下される。酷い会社に勤めると罰を喰らうのと同じです。その神は己の信者に罰を喰らわすが近づかなきゃ罰はない。( ´∀` ) あなたが誰かに罰(害悪)を下したいと想わないならあなたは善人ですね。

罰を喰らいながら育った子は罰するを身につける。罰を仕方ないとか当然とか想う信者は罰する癖を覚える。だから誰かを誹謗しながら反省することも出来ない。他者の誹謗・中傷は己自身を傷つけるロジックはお分かりになっただろうか?己が子にも罰する癖を身に付けさせたら駄目なんだ。

ケアと云っても善いモノと決まったものでなく、悪いケアがある事を述べました。仲よしの友だちと過ごしているとき悪いケアをしてないか、私たちは用心したいものですね?どんなに嫌いな人の悪口も己と身近な人たちに跳ねかえってきて害悪となる。大事な人を傷つける怖い神は邪悪だよね?

格言に「一難去ってまた一難」とあり、中国に「塞翁が馬」とある。これらは同じ意味か?違う意味か?知識を問うているのではありません。想像性に問うているのです。水たまりに入りたがった子もやがて入らなくなるのをどう考えますか?解は幾つもあるのに正解でなければ罰せられるなら?

2つのフレーズに私が想うこと‥天の采配は「好いことないなあ、好いことあってほしい」だし、天の配剤は「いつも天に護られてる、だからって甘えちゃならない」ってなる。この「天」を大好きなお母さんに置き換えてかまわない。己の人生を誰かの「正解」に委ね・失敗して、罰せられる。

結局、天の采配に隷属するか?天の配剤を信じて「大人対応」していくべきか?ドチラかになる。誰かの神対応を待つのも・大人対応するのもあなたの自由です。大人対応するなら他者の知恵・権利を蔑(ないがし)ろにするべきでない。断崖絶壁で他者を傍観するよりは声を掛けたいと私は思う。

天の采配と神対応他力を頼みとする点で同じだし信頼できる他者に付いていくのは気楽で安心。天の配剤と大人対応は共助の精神を社会に広めることになります。それでドチラが果たして良いだろうか?民主主義・人間主義は大人対応を佳しとするように思えますが、如何でしょうか? 了

care  神対応大人対応か