進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

立ち位置のちがい&共通点


私の大好きなこの俳句は多くの人の共感を呼んでいる。そして私が冒頭の記事で述べたのとはドコか違う受け留めかたをしている人のほうが多い。分りやすいよう引用記事を下に一つ載せますが、あなたも立ち位置の違いはお分かりでしょう。
林檎は価格的に大衆的な果物で誰もが親しみを持つと思われる
林檎ジャムや林檎ジュースは家庭でお馴染の定番メニューだし
野菜サラダの味を甘く風味豊かに引立てるスグレ物の林檎だし
料理の下味付けに林檎が感じられると豪華な気分になる私だし
そうはいっても林檎にヨソヨソしいイメージも私は持っている
西洋をイメージするのは白雪姫かウイリアムテルの影響なのか
あるいはアダムとイブの楽園の林檎の話を想い出すからなのか
つまりそれほど異国的な果物だと私に想われている林檎なのか
多佳子の林檎はどうなんだろう‥私のと同じものなんだろうか
木箱のモミ殻のなかから現れる林檎は本来の光を失ってみえる
それを私の掌で擦ると糠が剥げて美しい輝きを取りもどすのだ
あたかも夜の雲のすき間にチラチラ揺れてみえる星々の照りだ
豪華な王冠の輝きでなく、ダイヤの指輪ほどの意味もないかも
地に落ちている微細な砂粒の欠片に光が反ねたほどの輝きかも
今ごろの幼児なら見向きもしない全然価値のない土石の光かも
そんな変哲ない硝子にも瑠璃と名づけて愛した時代の意識かも

それらの光が転げ転がりどんどん昇って夜空に溢れ煌めくとき
それらの光は自己主張せず互いに認め合う穏やかな世界を作る
光と光・お互い補い合って天を埋めつくすまで広がっていって
そんな光が星星となって地上を柔らかく照らしているこの世界
もしそれが本当になったらと想像して林檎が並ぶ店頭を眺める
足るのかな不足かな、大丈夫、こんなに溢れている林檎だもの
いやあ、私はとっても愉しい夢を見ていたみたいな気持ちです
       星空へ店より林檎あふれをり
上記・橋本多佳子の句に力づけられている読み手がいる。これはナンテ素晴らしいことだろう。読み手の立場を否定するのは詰らない。結局、橋本多佳子は読み手を元気づけたくこの世界を活用する詩人の立ち位置にあるようです。その作者の思いを素直に受けとめて健康に育つ次世代の児童たち。

人々はこの橋本多佳子の姿勢に共鳴するだろう。共鳴して次世代の児童を真似るのもかまわないと思うが、詩人の入り口に立った私は橋本多佳子を真似たい。それで詩人は何を感じ何を想うのか。現実の世界を観て感じた橋本多佳子に違いなさそうだし、彼女はいったい何をみたのだろうか⋯。

現実世界を写生俳句する思想は橋本多佳子の作句の姿勢のなかに脈々と受け継がれている。こう見てくると彼女が偉大なる哲学者にちがいないと結論づけることになる。地から足が離れた夢想の世界で児童を楽しく遊ばせながらも、哲学者自身の足は決して地から離れることはなさそうに思う。

いろいろな立ち位置がある。やさしくも厳しい目で児童を見守る立ち位置は大事だし、険しい恐ろしい目で事件に巻き込まれないように見守る立ち位置も大事だし、それらの何れにも共通する視点があるとしたら現実世界を正しく見守るという視点。親も教師も役人も哲人も詩心の目が良いのかも!