進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

莢(さや)の願いは

前回の記事「舟 or 莢」で触れた莢(さや)に想うところをココでは書きます。この切っ掛けを作ってくれたのは現在放映中のnhk連ドラ「スカーレット」なんですけどね。今朝の番組をご覧になったとして⋯ヒロイン喜美子に対する夫・八郎の言動をあなたはどう思われますか?「女性陶芸家なんてダメだ」という社会の風潮を気にしないで陶芸の道を一直線に歩もうとする喜美子。そして「喜美子が傷つくだけだからやめろ」という八郎。このような番組をnhkが作る時代が訪れたのですね。私はnhk喝采を贈りたくなりました。

喜美子を護りたい⋯その想いは八郎だけでなく喜美子自身も持ってるし、喜美子の母親も妹も小学生の息子も持っている。それで喜美子を護るためにどうあるべきだろうか?喜美子の周りに悪人はいないのです。誰もが喜美子を傷つけたくない。あなたのお考えは如何だろう?「そんなこと、私には分らんわ」で済ます人は伝統に人生を委ねる生きかたをしている。その結果が好ければ「私は大したもんだ」と「佳かりけるあなた自身」を世間に自慢することもできるでしょう。そんな素直なあなたもOKだと私は思うのです。

大切な存在を莢(さや)に包んで護ってあげたい。その意識は大昔から私たちに受け継がれてきた伝統文化のようです。いっぽう、喜美子の想いはいつも否定されてきて、太宰治の時代も否定されていたし、10年前にも否定する人の数が圧倒的だった。今は如何でしょうか?そんなことを想うゆえに私は拍手喝采を贈りながら「してやったり!」の愉快な気持ちに浸れているのだと思う。太宰治は太田静子に八郎と同じ趣旨の台詞を述べているし、その太宰の弱気の心は「人間失格」に顕われている。結局・太宰も伝統に従った人物でした。

勿論、伝統に従わざるを得ない時代性を私は否定しない。伝統に則って生きた太宰はそんな己に満足できたか⋯満足できていたなら「人間失格」の弱気発言はなかったのでないかな。己の一生を詰らない詰らないと想いながら生きるために産まれた訳でもないだろうに、「今日も頑張ったよ」と朗らかに笑いながら過ごせば愉快な人生だろうに、どちらを選るかは太宰治の権限・選択肢。旨くいったときは「俺って恰好いい」ってヨガレルし、嫁さんの前で清清しい本音を見せられなければ、それもやっぱり太宰が負うべき責任に違いない。

太宰治は太田静子に告げる。「キミでは売れないよ」「私の名前で出すから、キミの名前は伏せておくんだよ」と⋯その結果として「斜陽」が大ヒットした厳然たる事実がある。「喜美子では売れないよ」という八郎の言葉に偽りはない。喜美子の名前を伏せて八郎の名前で世に出せば売れる⋯そういう作品を作ってみせる。喜美子はそう考えた。太田静子は自分の名前に拘らなかった。愛する太宰の名前で売れたらいいと思った。喜美子も太田静子もどちらも作品を世に問いたかった。八郎と太宰治のキャラクターにはズレを見る私なのです。

あなたはどちらでしょうか?どちらを選るもあなたの好きにできる権限ですね!?(管理人)