進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

箱伝説/舌切雀㋩

AI時代を迎えた社会で今存在しない職業につく確率は65%になる」とnhk他のメディアを筆頭に騒がれている。仮に⋯10万人に一人が選ばれる、あるいは1万人に一人、100人に一人、2人に一人が選ばれる⋯これに無関心でいられる確率は「あなた」ならどの辺だろうか。このように捉えたのは太宰治の「舌切雀」に私が関心を持ったからだろう。


太宰治御伽草子から借りて自伝「舌切雀」を書いたと私は理解している。私も似たようなものだから太宰を善く受けとめることができる。太宰治が歩く道は一般世間の人の進路とは異なって当然ですが、これは太宰が知識人として育ったからと云うのとは違う。太宰の恵まれた環境に拠る所が大きいだろうな。斯く言う私も知識人としての己を育ててきている。


私の精神は知識人だが私の身体は労働者という意識を手放したことは一度もない。太宰治私と決定的に異なるところは自己心身を知識人へと育てた点だろう。知識人は「考えて行動しなさい」と云うことが多い。私の教師たちも「考えて行動しなさい」という指導方針に則っていたようだし、その視点から観た私は劣等生のレッテルを貼られて当然となる。

太宰治の通知表には今で云うところの「5」が並んだようで、嘗てない優秀な児童・生徒として現在まで名が残っているようだ。太宰の宝箱にはそう云った輝かしい財宝が詰まっていて当然と自他ともに思う。優秀な人に倣わねばならないと感じている人は日本社会にじつに多い。このような根本的なモノの思考方向も「イデオロギー」と云うのだろうなあ⋯。

私のイデオロギーは「私の身体は労働者」というモノであれば世間のイデオロギーとは異なるようだが、それにつけて今朝の連ドラ「スカーレット」で喜美子の息子が世間を採るか己のイデオロギーを採るかの岐路に立ったように見えた。彼の肉体は「労働者」でありたいが、世間に合わせたい意識が頭をもたげている。ここを朝一番の喫茶店と思ってもいい。

教わった教育に従がうなら営業マンは喫茶店朝一を過ごさなければならない。考えて行動するべき故に喫茶店で同僚と談話しながら頭を働かせることになる。それは世間に合わせることでもある。陶芸が好きだからと云って世間に逆らって粘土を弄るのは常識に反する。喜美子は「息子の好きにしていいよ」と横で支える考えだ。そして父親は逃げたのだったね。


さて、ここまでを読んできたあなたには「私の気楽さ、太宰治の辛さ」がお分かりだろうね。喜美子と同じ、私も好きなことに人生を費やしている。結果?それは誰が評価するものだろうか?世間の評価が好いか、自分自身の評価が好いか⋯そんなことで喜美子の息子は迷っている。喜美子も私も己自身の評価で満足したい。太宰には世間の評価しか無かった。

もう一つ、太宰自身が好きなことは何だったか⋯これが太宰自身にもハッキリ分っていないのでないか?現在の私は売れっ子作家としての器でない、それどころか只のプロ作家としての才もない。こうして私が書く目標は書きたいから。書くことで見えてくるモノもある。学者が発見・発明して幸せなようにです。太宰の前には「5」の目標がぶら下げられていた。

好きなことなら頑張れる。「5」を貰えなくても頑張れる。世間は認めなくても、頑張った己に「5」を贈ってあげられる。いずれ私にも創作小説が書けるかも知れないが今は書けない。ドラマの喜美子も「いずれ」を期待して始まった。太宰は「5」がほしい。太宰は好きな分野を選ぶことを許されない。太宰に「いずれ」はない。常に「5」でなければならない。

太宰治は添削して「御伽草子」を書いた。「斜陽日記」を添削して「斜陽」を書いた。「走れメロス」はギリシャ神話の一つを添削したモノだ。あるいは太宰自身の生活風景を添削して仕上げた小説が「人間失格」であり、「ヴィヨンの妻」であり、短編小説・随筆富嶽百景」だったようだ。「自分の恥を晒して小説を書いている」と云っていたのでなかったか。


それで果たして太宰治は愉しかっただろうか。太宰治が哲学者を目指したなら世間の目を意識せずに済んだかも知れない。事実を探求する科学などの職業に就いていたならもっともっと自由に過ごせていたと想うも、哲学者を名のる人でも科学者でも世間の目を意識せずに暮らす訳には行かない。その点でイデオロギーを意識する人は確信的に選択できるだろう⁉


タケ藪に寝そべって雀のお宿の夢の世界へ飛んで遊んだ太宰。じつに多くの夢を育んだ分だけ誰よりも私は豊かな境涯を過ごせているようです。舌切雀のお噺はココ迄。了 (管理人)