進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

聖のイメージ/

西欧で「」はどう捉えられているか? 聖樹・聖夜・聖職・聖母・聖女・聖堂・聖水etc...。これらの例から私の脳裏に「」が浮んでくる。聖と俗の差は日本に於いては小さくて、西欧ではトンデモナク大きくて、だから西欧では俗人が聖人を目指すなど、トンデモナイこと。その点、聖人を目指して出家する俗人は東洋に独特のモノかもしれない。そうであれば聖に対するイメージは個々人ごとに異なる。それでこの違いはドコから生れたのだろうか?あれこれ考えてみて、その土地や社会に息づく文化の違いや、個々人へ()及ぼす哲学の違いを無視できなくなる。

文化と言い・哲学と言っても様々な捉え方があって、ここでは私の捉え方の一つを挙げて考察していく。文化は土地や社会に息づく性質のモノであれば・個々人は文化の影響を免れがたい(客体・受動)。そして個々人に基づくのが哲学であれば・哲学の責任は個々人に帰す(主体・能動)。俗から聖への流れは文化として観れるし・哲学として観れる。だったら文化と哲学の違いにどう対するか?言い換えるなら、どちらの(価値)を選るか・選るべきか?の重視は仏法を重んじる私の哲学(思想/宗教)であれば(あなたの)無視は有得る。すなわち利の追及は卑しいとみる哲学・文化も私は理解する。

格言には門前の小僧習わぬ経を読むとある。これを「すごいな!偉いな!」と感心する哲学や文化がある。その伝でブッポウソウに親しみ・鶯に親しむ文化がある。そんな文化を私は理解する。その小鳥の鳴き声を聴いて悦びを覚えるのは人間として健全にも思える。悦びはに具わる。これは私の哲学です。は無くても悦べるというお人はいらっしゃるだろう。美しいモノに触れて悦ぶとか・善行に触れて悦ぶとか、そういう文化・哲学を私は理解する。その文化・哲学の立場からは私を理解しなくても、私はそれらを理解する。世界は私の哲学・文化を利することになっている。

公共放送nhkが放映した「テレジンの絵は語り続ける」に触れたい。ナチスドイツが多くのユダヤ人を罰した舞台の一つ・テレジン収容所。死を約束された子供たちは怯えて過ごす地獄の日々。その恐怖感は大人も同じでしょう。この状況で人はどうしたらい?教戒師は「罪を悔い改めて懺悔しなさい」って指導するらしい。キリスト教教戒師も仏教の教戒師もそれはあんまり変わらないと思う。死んで幸せになりなさい⋯だろうな。国の裁きによって決まった死罪なんだもの。その理屈は私も理解する。そういう文化・哲学・思想・宗教によって死の宣告は下されるのですね。

お分かりになるだろうか?なる「文化・哲学・思想・宗教」をわたしは述べたつもりです。それで身近な例で思いだすのは「ああ上野駅」の歌。心強い先生が・仲間が同じ列車に乗って見知らぬ土地へ向かう。情けない・心細い・つらい気持ちに囚われないで済むように付いていってもらえる心強さ。こっちで手を振って見送るのがなら、いっしょに旅を続ける行動は何と呼べはいいだろうか?これをとまで呼ばなくても聖の方向へ向かっているのは間違いない。これは共に死へ旅立った親たちの後を引き継いだフリードル・ディッカー・ブランデイズ女史に限らない。

(念のために)
フリードル・ディッカー・ブランデイズは子供たちを元気づけたと捉えるのは誤りではないが、子供たちを包みこむことで彼女自身が救われたに違いない。子どもに懸命に対する親は己自身の幸不幸に囚われる暇などなくて、誰か(≒子供)をどう勇気づけようか・元気づけようかとポジティブに取組むことで精一杯に違いないのです。生きている時間をポジティブに生きることが出来たのは子供たちがいてくれたお陰でもある。ま、これは私の現時点での哲学文化ではあります。了。