進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

自己超克/時宜(6)

善い・佳い・良い・好い…どれも似ていて(好みに寄るだろうが)、私には「」がソレっぽくて使い勝手がいい。仮に「この絵いいねえ」と言うときの「いいねえ」に以外は当て字(借字)として使えそうだし、当て字は万葉仮名の成立ちと同じく本来の意味から離れて遣われる。その点「」は一風変わってみえる。つまり、孤高を保っているようで私には清清しい「」なのですが、善がしくみえてしまって戸惑ったりする。いくら美しくみえる善も美ではなく、いっぽう佳い・良い・好いにはと置き換えられる気楽さがある。

私には、外面(表層)の佳い・良い・好いで、内面(深層)の善い評価する傾向があるが、的(まと)を外したと感じたことは今迄ないからマァマァかな。表層の佳い・良い・好いの評価を目標に置くのは愉しいし、ソコへ至る過程が後ろめたくない深層の善いであればこそ清清しい気分も味わえるし・誇らしくもなるのだろう。こう導かれてきて結局、他者からの評価佳い・良い・好いだけで満足できない欲深な私が見えてくる。即ち、もっと満足したい。表層だけでなく深層の悦びが欲しい。私の深層を他者が見ることはないけれど、晴れ晴れとした悦びが得られるまで心の飢えが収まることは決してない。

(表面化している)現象は感性で評価することになる。だから現象(言動)を時間軸で細切れして評価するとき、誉められたり・貶されたり、無責任な小鳥の毀誉褒貶(きよほうへん)の囀りさえも姦(かしま)しくも嬉しくも感じとれる。変わることのない永遠普遍の賞賛は深層の悦び。誰にも知られなくても善行・善業だけは嘘・偽りのない実質・真実であれば永遠の財(たから)として私の心に染まり・魂の確かな記憶としていける。これを道理といい・計算が合う(採算が合う)という私の確信も感性なしに(旨味を知らなければ)知ることはなかった筈(はず)です。他者の評価も嬉しいけれど他者は普遍では有り得ない。

己心の深層に収めた善の記憶以外に確かなモノはない。いやいや、記述は私の体験であれば、あなたは別かも知れません。知らんけど。了。