進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

考/雨にも負けず➑

― 今回は入沢康夫による宮澤賢治誹謗記事コピーを載せます ―

上記、入沢康夫による宮澤賢治の誹謗記事と述べておりますが、fc2の管理人が私の投稿を誹謗と理解した時、私の記事は削除されるでしょう。そうでなくて、私の記事が「誹謗記事を咎(とが)めていると受けとめられたとき、記事はが消されないと思います。(*´ω`*)


そよかぜ~文学少女
気.    . 吹  て . 通.  . す .ぎ .た         . 又  郎..  .も 

賢治の遺品「雨ニモマケズ手帳」に綴られた『雨ニモマケズ』の詩、
仕事の合間に思い浮かんだフレーズは溜まり、やがて詩に成長する。
賢治は楽しい思い・辛い思い・苦しい思い・悲しい思いをしたと思う。
己が苦しければ、他人の苦しみにも思いが及ぶのが詩人・菩薩です。
詩人の思いは、弱い人・虐げられている人への思いとなって膨らむ。
その思いが頂点にまで膨らみ・結実して産声は元気にあがるのかも。

推敲半ばに病に倒れた賢治を偲ぶ人たちの思いが詩を蘇らせたのか。
早産児が力なきが如く、この詩も完ぺきとは言えないかも知れない。
良医は未熟児を貶す事なく・その命をつなぎ留め・育てようとする。
その未熟児の母が懸命に耐え・戦ったことを誉めて労い・祝福する。
その母の想いを我がモノとしてこそ、赤子の力を引き出せるのです。
未熟児という事だけで外科手術するのは理に合わないと思うのです。

雨ニモマケズ』は「ヒドリ」をそのままに置くのが好いと思った。
その上で「ヒドリ」が致命的な欠陥だとなれば外科手術も必要かも。
詩『雨ニモマケズ』に「ヒドリ」が使われてはならないのだろうか。
「ヒドリ」が気に入らないだけだという文学者はいないと信じたい。
その答えを得るために、批判的立場の人の言葉にも学ばねばならむ。
そう考えて、そして辿りついたのが入澤康夫氏が展開する持論です。

入澤康夫氏の論については次のHPに明らかです。
 宮沢賢治学会イーハトーブセンター
イーハトーブの記事&アドレスは既に削除されています(記.2021/1/10)


以下、入沢康夫の誹謗記事コピーです

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㊟文頭の(数字)は、読みやすくする目的で私が振ったものです

入澤康夫氏の『ヒドリ』誤まり論】

(1)もう十三年前、一九九二年の初めに出た「宮沢賢治」誌十一号に、私は「賢治の『誤字』のことなど─『ヒドリ』論議の決着のために」という小文を発表して、「〔雨ニモマケズ〕」中に賢治が書いている「ヒドリ」は「ヒデリ」の書き誤りであり、その点では過去の諸刊本がこれを「ヒデリ」と校訂してきたのは正しい処置であったと述べた。実際、この問題に関しては、学問的には、当時すでにはっきりと答えが出ていたのであり、もはや論議の余地は無いと考えるに到っていた。

(2)ところが、一般社会では、この問題をとりあげた大新聞の記事の力もあってか、いまだに「ヒドリ」が正しく「ヒデリ」に直すのはよろしくないと、思いこんでいる方々もかなりあるようだ。そしてそれが、場合によっては、大きな弊害さえ生みかねない(現に生んでしまってもいるらしい)ことを知って、心を傷めている。

(3)そこで、編集委員会の依頼もあり、前記十三年前の拙文の要旨を、以下に抄出して、読者の皆様に今一度、問題の本質を確認周知していただきたいのである。

(4)その度合いの多い少ないはあるにしても、どんな物書きでも書き誤りはある。「弘法も筆のあやまり」という諺さえあるぐらいだ。筆の勢いでつい誤った字を書いてしまう、あるいは必要な字を抜かしてしまう、といったことに関しては、宮沢賢治にしても例外ではない。

(5)平仮名で「ほんたう」と書くとき、賢治はときどき「ほうたう」と誤記している。これは、原稿を書いているとき、手より頭の方が先回りしすぎて、一字または二字先に書くべき字を書いてしまうという傾向──これが賢治にはきわめて顕著である──の結果であろう。たいがいは、書いたとたんに気がついて、抹消して、正しく書き直しているが、気づかず、そのままになってしまうものもある。

(6)こうした「書き誤り」についての論議で、ここ十年間の、もっとも顕著な例は、あの「〔雨ニモマケズ〕」中の「ヒドリ」の二字にかかわる一さわぎであろう。手帖の一冊に記されたあのあまりにも人口に膾炙した章句(作品?自戒自省のメモ?祈り?)の中の、
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
の箇所で、賢治は実際には「ヒデリ」を「ヒドリ」と書いている。これを、これまでのすべての刊本では、「ヒデリ」の書き誤りと見て校訂し本文としている。そして、そのことはけっして秘し隠されていたことではなく、すでに手帖そのものの複製や、当該数ページのファクシミリ等も世に出ていたし、『校本宮澤賢治全集』でも、校訂した上で事実を明記していて、その意味では、世に公開されていたわけである。

(7)ところが、「ヒドリ」は誤記ではなく、このままで「日傭いかせぎ(の賃金)」のことを言う方言なのだ、これまでの諸刊本の処置は誤っている、「ヒデリにケガチ(飢饉)なし」というくらいで、ヒデリは農民にとって不都合なことではない、ということを言い出した方があり、ある大新聞がそれにとびついて、全国版社会面のトップで大きく扱い、しかも原文が「ヒドリ」であることをこれまで不当に隠されていたかのごとき印象を与えるセンセーショナルな書き方をしてしまった。しかも、何人かの人々が、ろくに考えもせずに、この新説を支持する言辞をジャーナリズムの需めに応じて発表した。そのため、事ははなはだ面倒なことになって、記事の扱いの大きさなどから言って、世間一般では、「ヒドリ=日傭いかせぎ」説の方が正しいとまでは思い込まないにしても、論議は五分五分の形で、いまだにケリがついていないくらいに考えられているようだ。さらに副産物(?)として、「文学作品本文は、いっさい作者の原稿通りであるべきだ」といった趣旨の、俗耳には入りやすいが、実は暴論としかいいようのない発言もとび出す始末で、情けない限りであった。

(8)しかしながら、この問題については、前記新説の成り立つ余地は限りなくゼロに近く、逆に従来の(「ヒドリ」を「ヒデリ」の誤りと判断して本文では校訂する)立場は、確かな根拠(内容から言っても、本文批判的立場から言っても)がいくつもある。「ヒドリ」が「日傭い(の賃金)」では、前後と文脈的につながらないこと。賢治が、いくつもの作品(「グスコーブドリの伝記」ほか)で、常に「夏の寒さ(冷夏)」と「ひでり(旱魃)」とを、農家が困ることとして扱っていること。それが最も端的に書かれているのは、「グスコーブドリの伝記」の下書稿に当たる「グスコンブドリの伝記」の第七章冒頭部であろう。そこには、次のような対話が出てくる。
「ブドリ君‥‥‥沼ばたけ(水田)ではどういふことがさしあたり一番必要なことなのか。」
「いちばんつらいのは夏の寒さでした。そのために幾万の人が飢え幾万のこどもが孤児になったかわかりません。」
「それは容易なことでない。次はどういふことなのか。」
「次はひでりで雨の降らないことです。幾村の百姓たちがその為に土地をなくしたり馬を売ったりいたしました。」
 また、賢治の詩稿の一つ「毘沙門天の宝庫」では、「旱魃」に自分でルビをつけようとして、まず「ひど」まで書いて、誤りに気付き、「ど」を消して、「でり」と改めて続けている現場が見られる。これなどは、賢治が「ひでり」を時として「ひどり」と書き誤る傾向があったことを示しているし、また、「グスコーブドリの伝記」の生前発表形(昭和七年に「児童文学」に掲載)でも一カ所、旱魃の意味の「ひでり」が「ひどり」となっているところがある。これなどは、印刷上の誤植というより、元原稿そのものの誤りがそのまま活字化されたものである可能性が高い。

(9)こうした点については、すでに雑誌「賢治研究」五十三号(一九九〇年十一月)に平沢信一氏の明確な指摘があり、私もまた一九九〇年秋に池袋で行われた賢治フォーラムの席上で、資料のコピーを添えて説明し、その要旨は、やはり「賢治研究」五十四号(一九九一年二月)に載ったが、同誌は研究会の会誌として一般の目に触れにくいと思うので、ここに、今一度記した。

(10)話は、冒頭にもどるが、どんな物書きでも書き誤りはする。諸々の証拠に照らして誤りと判断できるものを、正しく校訂して本文にすることは、作者の意図を尊重する上で必要不可欠のことである。そうした本文校訂の責任は、きわめて重く、かつ多くの困難をともなうものであることを、読者も、編纂者も、出版社も、ここいらで再確認していただきたいと、つくづく思う。


(11)以上が、かつての拙文からの約三分の二の抄出である。
 賢治は、上記引用中にもあるように、水田農業にとって、「夏の寒さ」と「旱魃(ひでり)」は、困ることの筆頭に考えていた。「穂孕期」に日照が不可欠であり、「ヒデリにケガチなし」と諺にあるとしても、それは「日照」のことで、苗代期・田植期の「旱魃」(往々水争いなども起こった)のことではない。「旱魃」の「恐ろしさ」に触れた箇所は、賢治の詩にも童話にも、あちこちに見られる。

(12)文理的にも、本文批判的にも明らかに書き誤りと判定される箇所を、「あの賢治さんが書いたものだから変えてはならぬ」とばかり、間違いをそのまま生徒に暗誦記憶させたり、碑に刻んで後世に遺したりするのは、上に述べたような事情をわきまえずに、すでに成り立たないことが明らかになっている所説(「ヒドリ=日傭取りの賃銭」といった、書き手のその時の意識には浮かんでもいなかったことを主張する説)になおもすがりついた、一知半解の不適切な扱いであり、ひいては賢治の営為の本質に対する冒涜にもなることを、あらためてここで強調しておきたい。

(13)是が非でも賢治が書いた通りに碑に刻むというなら、碑の裏の銘板に「『ヒドリ』は『ヒデリ』の作者の書き誤りであるがそのままにする」といった主旨の注記がなされることが建碑者の、後世に対する責任として不可欠だろう。児童・生徒に教える時もはっきり「ヒデリ」と教えるべきである。そして、どうしても言いたければ「じつは賢治はここをヒドリと書き誤っているのだよ。賢治だって書き間違いをするんだねぇ」と付言する程度にするべきだと思う。
(顧問 神奈川県川崎市

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「ヒデリ」の文献的根拠              入沢康夫

(14)先ごろ「会報第30号ヤナギラン」に《「ヒデリ」──「ヒドリ」問題について》という一文を載せていただきましたが、その中で「ヒドリをヒデリに校訂する立場には、確かないくつもの証拠がある」と書きましたところ、そのいくつもの証拠をもっと示せというお声がかかりました。そこで、やや長文に及びますが、上記拙文では紙面の関係で挙げられなかったものを(気がついた限りで)童話と詩に分けて順不同に列挙してみます。(丹念に拾えばもっと増えると思います。)
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(15)
●童話「双子の星」
1. 私共の世界が旱(ルビ「ひでり」)の時、痩せてしまった夜鷹やほととぎすなどが、
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(16)
●童話「〔或る農学生の日誌〕」
1.高橋君は家で稼いでゐてあとは学校へは行かないと云ったさうだ。高橋君のところは去年の旱魃がいちばんひどかったさうだから今年はずゐぶん難儀するだらう。それへ較べたらうちなんかは半分でもいくらでも穫れたのだからいゝ方だ。〔注:「半分でもいくらでも」は「例年の半分かそこら(半分程度)だったにしても」の意であろう〕
2.耕地整理になってゐるところがやっぱり旱害で稲は殆んど仕付からなかったらしく赤いみぢかい雑草が生えておまけに一ぱいにひゞわれてゐた。/やっと仕付かった所も少しも分蘖せず赤くなって実のはいらない稲がそのまゝ刈りとられずに立ってゐた。 
3.あんなひどい旱魃が二年続いたことさへいままでの気象の統計にはなかったといふくらゐだもの、どんな偶然が集ったって今年まで続くなんてことはない筈だ。気候さへあたり前だったら今年は僕はきっといままでの旱魃の損害を恢復して見せる。
4.水が来なくなって下田の代掻ができなくなってから今日で恰度十二日雨が降らない。いったいそらがどう変ったのだろう。あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。
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(17)
●上記作品の創作メモ  創26「黎明行進歌」。
1.《父は水田一町一反畑地一町三反と、林三反歩原野一反歩母屋外三棟を有する自作農。前二年続ける旱害のため総て抵当に入れり、》 
2.《[一九二五年]六月 旱害 七月 旱害》 
3.《[一九二六年]六月 旱害》
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(18)
●童話「〔グスコンブドリの伝記〕」
1.ところがその次の年はちゃうどオリザを植え付けるころから雨がまるで降らず毎日そらはまっ青で風は乾いてゐましたのでどこの沼ばたけもまるで泥がかさかさに乾いてしまひだんだんひゞも大きくなってきました。ブドリたちは一生けん命上流の方から水を引いて来やうとしましたがどこのせきにも水は一滴もありませんでした。主人もまるで幾晩も睡らないで水を引かうとしてゐましたがやはりだめでした。
2.たびたびの寒さだの病気だの旱魃だののためにいつの間にかもう沼ばたけも昔の三分一になってしまって
3.雨はちょっと降りさうになっては何べんも何べんも晴れてしまふのでした。みんなは毎日そらをながめてため息をつきました。/「さあブドリ君、たうたうひどい日照りになった。(下書部分)
4.ところがそれから二年たってまた旱魃がやってきました。毎日毎日そらは乾いて沼ばたけはあっちもこっちもまたひゞがはいったといふやうなしらせは毎日新聞へ出てきました。(下書部分)
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(19)
●童話「〔グスコーブドリの伝記〕」(「児童文学」発表形)
1.ところがその次の年はさうは行きませんでした。植ゑ付けの頃からさつぱり雨が降らなかつたために、水路は乾いてしまひ沼にはひびが入つて。秋のとりいれはやつと冬ぢゆう食べるくらゐでした。来年こそと思つてゐましたが次の年もまた同じやうなひどり(「ひどり」は発表誌のママ)でした。    
2.クーボー大博士は(中略)そしてしまひに云ひました。/「もうどうしても来年は潮汐発電所を全部作つてしまはなければならない。それができれば今度のやうな場合にもその日のうちに仕事ができるし、ブドリ君が云つてゐる沼ばたけの肥料も降らせられるんだ。」「旱魃(ルビ「かんばつ」)だってちつともこわくなくなるからな。」ペンネン技師も云ひました。
3.「(前略)雨もすこしは降らせます。/ 旱魃(ルビ「かんばつ」)の際にはとにかく作物の枯れないぐらゐの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付しなかつた沼ばたけも、今年は心配せずに植え付けてください。」 (火山局ポスター )
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(20)
(以下、詩に関しては、確認の便宜を図って『新校本全集』の巻数頁数を付記します)
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(21)
●詩「一八一 早池峰山巓」16、17行
 九旬にあまる旱天(ルビ「ひでり」)つゞきの焦燥や/夏蚕飼育の辛苦を了へて (第三巻 本p.111 校p.272)
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(22)
●詩「三五六 旅程幻想」初行
 さびしい不漁と旱害のあとを (第三巻 本p.164 校p.397)
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(23)
●詩「二五八 渇水と座禅」6行?11行
 さうして今日も雨は降らず/みんなはあっちにもこっちにも/植ゑたばかりの田のくろを/じっとうごかず座ってゐて/めいめい同じ公案を/これで二昼夜商量する…… (第三巻 本p.221 校p.536)
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(24)
●詩「三一七 善鬼呪禁」末尾より6行と同5行
 どうせみんなの穫れない歳を/逆に旱魃(ルビ「ひでり」)でみのった稲だ (第三巻 本p.141 校p.340)
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(25)
●詩「一〇二二〔一昨年四月来たときは〕」最終行
 そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た (第四巻 本p.55 校p.110)
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(26)
●詩「一〇七六 囈語」後半部
 せめてもせめても/この身熱に/今年の青い槍の葉よ活着(「活着」にルビ「つ」)け/この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるほせ (第四巻本p.264 校p.327)
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(27)
●詩「一〇七六 病中幻想」最終連
 せめてはかしこ黒と白/立ち並びたる積雲を/雨と崩して堕ちなんを (第七巻 本p.235 校p.613)
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(28)
●詩「発動機船 一」9?12行
 ……あの恐ろしいひでりのために/みのらなかつた高原は/いま一抹のけむりのやうに/この人たちのうしろにかゝる……(第五巻 本p.10 校p.9)
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(29)
●詩「毘沙門天の宝庫」下書稿初形22行以下
 旱魃(ルビ「ひ[ど→(削除)]でり」と手入れしてある)のときあいつが崩れて/いちめんの雨になれば(中略)
 大正十三年や十四年の/はげしい旱魃のまっ最中も/いろいろの色や形で/雲はいくども盛りあがり/また何べんも崩れて暗くひろがった/けれどもそこら下層の空気は/ひどく熱くて乾いてゐたので/透明な毘沙門天の珠玉は/みんな空気に溶けてしまつた (第五巻 校p.48?49)
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(30)
●詩「毘沙門天の宝庫」本文22行以下
 もしあの雲が/「旱(ルビ「ひでり」)のときに、」/人の祈りでたちまち崩れ/いちめんの烈しい雨にもならば/(中略)/大正十三年や十四年の/はげしい旱魃のまっ最中も/いろいろの色や形で/雲はいくども盛りあがり/また何べんも崩れては/暗く野原にひろがった/けれどもそこら下層の空気は/ひどく熱くて乾いてゐたので/透明な毘沙門天の珠玉は/みんな空気に溶けてしまつた/(第五巻 本p.50?52)
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(31)
●詩「旱倹」本文第二連
 野を野のかぎり旱割れ田の、白き空穂のなかにして、/術をもしらに家長たち、むなしく風をみまもりぬ。 (第七巻 本p.80   校p.252)
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(32)
●詩「〔歳は世紀に曾って見ぬ〕」 3-4行
 人は三年のひでりゆゑ/食むべき糧もなしといふ  (第七巻 本p.181 校p.535)
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(33)
《まとめ的追記》 
 以上に列挙しましたように、「旱魃(ひでり)」、「旱魃(かんばつ)」、「旱(ひでり)」「ひでり」といった語は、賢治の書き遺したものの中では、きまって、「困ったもの」「つらいもの」「恐ろしいもの」「せめて、涙とか、自分の身熱から生ずる汗でもって、ほんの少しでも渇きをうるおしたいもの」といった負のニュアンスで出て来ます。
(これに反し、日雇い労働の辛苦のニュアンスをこめた「ひどり」という語は、あれほど農家や農作のことに言及している賢治の莫大な文中(作品・書簡・雑纂等、現在知られているすべてを含めて)には、ただの一箇所も見付かっていません。「葬式」「肥取り」などの意味でも、もちろんです。)
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(34)
《付録》
「ヒドリ」→「ヒデリ」の校訂に対する、論難と反駁(「ビジテリアン大祭」ふう)
論難者A :手帳に書かれた、この「雨ニモマケズ」のいくつかの箇所で賢治は字句の手直しをしている。「ヒドリ」が誤記なら、賢治はその手入れの際に気がついて訂正した筈ではないか。
駁論者A :これらの手直しは筆記具・筆致も同じで、おそらく皆、書きながらの直しであり、後日見直しての手入れはされていない。同様の誤字の例は、たとえば同じ手帳の十数頁あとの70頁に書かれた「諸仏ニ報ジマツマント」にも見られる。その前後にいくつかの手直しや抹消が見られるが「マツマント」は「マツラント」に訂正してない。
論難者B :同じ手帳の近くの頁に記された劇のメモ「土偶坊」中では「ヒデリ」とあり、こんな近くで同じ語を書き誤るはずがない。
駁論者B :賢治の草稿類では、同じ紙葉上や次の紙葉上に同じ語句が繰り返し出てきて、そのうちの一つだけが書き誤りになっていることさえ、ままあることだ。むしろ近くにヒデリがあることは、ヒデリへの校訂をバックアップしているともいえるのではないか。
論難者C :詩「善鬼呪禁」に「旱魃でみのった稲」とあるが。
駁論者C :前後をよく読むと「その歳はその田だけがみのって、他のみんなの田は収穫がなかった」のである。
論難者D :ヒドリ=日手間取り説の創唱者は賢治の教え子であり、多年賢治顕彰に力をつくしてきた、秀れた人格者で、そういう人の判断は何よりも優先すべきだ。
駁論者D :一つの説の妥当性有効性は、その説の創唱者の人格や経歴によって左右さるべきものではない。これは言うまでもないことだ。
論難者E :あれほど執拗に推敲を繰り返し、言葉を選んだ賢治が、文字を書き誤るなどということがあるのだろうか。
駁論者E :校本全集の各巻巻末や新校本全集各巻の校異篇末尾にある「校訂一覧」を見れば、そこには本文で校訂した賢治の誤字が、何十も並んでいる。手入れの書込みの字句に誤字があることさえも、往々ある。
論難者F :とにかく賢治はヒドリと書いているのだから、他人が勝手に変えず、そのままにすべきだ。
駁論者F :十分な根拠に立って書き誤りと判定されたものは、世に出すときに正しく改めなければならない。さもなければ、賢治の真意は世間に誤って伝えられ、あるいは混乱を呼び、(ちょうどこの問答のような)無用の議論や無用の解釈を生んだりもするのだ。〔満場苦笑〕
論難者G :な、な、何が故に、「ヒデリにケガチなし」という、昔からの諺をないがしろにするのか。
駁論者G :まあ、まあ、落ち着きたまえ。すこし詳しく話してあげよう。いかにもその諺は大局的には正しい。手近な百科事典の「日照り」や「干魃」の項目には、「日本には古来『日照りに不作なし』という諺があり、これは稲作では雪解け水なども期待できるから、多照の年はむしろ米の豊作になることが多いことをいったものである(根本順吉)」とか、「日本は周囲が海であり、比較的湿潤な気候であるので、干魃の年は局地的にはひどい所があっても、イネなどは全般的には豊作な所が多くこのため『日照りに不作なし』などといわれる。(安藤隆夫)」などと、説かれている(『スーパー・ニッポニカ2002』)。しかし、この諺は夏の冷害がもっとも恐ろしい東北地方全体とか岩手県全体の作況についてなら、ほぼ当たっているであろうが、もっと狭い個々の範囲・個々の水田についてまで一概に適用できないのは、上記安藤氏の「局地的にはひどい所があっても」という留保に見られる通りだ。それに、当面の問題は一般論ではなく、賢治が旱魃・旱害をどう感じ、どう受けとっていたかではないか。そして、それは、彼が書き遺した多くの作品から、すでに一目瞭然ではないか。ここに、「ヒドリ=ヒデマ取リ」説を言い出された当のお方が自説を主張するために書かれた文章(「イーハトーブ短信」12号所収)があるが、この中に聞き書き引用されている篤農家の古老の言葉にさえも「田に水を引くことの苦労は毎年のことだが、日照りの時の苦労は格別で夜もろくろく眠らず水口番をすることが多かった。だから百姓同士の水引き喧嘩が絶えなかった。思い余って部落人が総出で神社に神楽を奉納して雨乞い祈願後に御神酒を頂いたことなどは忘れてはいない」という箇所があることを指摘しておこう。
以上
(なお、「ヒドリ」は「ヒトリ=一人」の誤記であるという意見につきましては、
http://www.kenji.ne.jp/why/review/review323.html
 に載せていただいた拙文をご参照いただければ幸いです。入沢追記)

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未完/雨にも負けず