進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

法 ~ 公共の意味

確認しておきます。私のブログ「Cat's Star 愛🐈彡」のルールを徹底したくて、それで拵えたカテゴリLaw in Cat's Star(猫星の法則)の中身を勘案中です。(即ち私の目的は)ブログのルール/カテゴリの法則正当性担保に日本の良識を置きたい。私のこの発言を日本の常識豊かなあなたはどう判断なさるだろう。ブログの運営者の責任に於いて好きにしたらいいじゃないか⋯となるのかも知れませんね?いかが? 但し私がそれに同意しない訳は「私のブログは公共の場」と述べたとおりです。日本の常識と私とでは公共の意味が違うのかもしれませんが。

そして私の良識論では「どこまでも健全であろうとする意識」と言えそうです。「なんじゃ、そりゃ!」とお感じになる人はいらっしゃるかも知れない。自分の良識のほうが上だと思われる人はいらっしゃるかも知れない。それは結構なことだと私は思う。結構なこと⋯即ち同じ方向を目指す関係。能力・スピード・スタートが同じ人はドコにもいない。聖人・君子・あなたに勝とうと私は思わない。私なりの歩みで十分。健全な意識へ近づこうとする想いだけは聖人・君子・あなたに逆行したくない。こう考えるとき、良識を遠ざける意味は誰にもないのでなかろうか?

さて、他者の想いに気づかないことは多いが、自分に具わる「想い」にも気づかないことはある。「意識」と言い、「想い」と言っても育っていくモノのようです。気づかなくても雌花と雄花は惹かれあう方向で生きている。人間の子も暑い・冷たいの意識は徐々に身に付いていくようです。好かったこと(快感)を経験して好きになり、逆なら無意識にも避けようとする。これは全ての子どもが例外なく覚え・学び・習慣化し、そして次第次第に意識する。全ては社会学するなかで身に付けたモノ。であれば赤ん坊に責任を取らせるのは果たして如何なものだろう?

21世紀の責任論はドコへ・どう進むか?未来に生れる者たちに責任を押しつける劣等な哲学を後生大事に持ちつづけるか?その責任は未来の子になくて、現代の私たちにあるのでなかろうか?そのことに気づけるなら幸いです。なにを言いたいかというと、罪だの罰だのと騒いで他者を懲らしめたがる風潮に棹を挿してみようかと、このように思っているのです。たとえば「罪は罰せられて当然です」って子供に教えない大人はどのくらいいるだろうか?「それはどうしてなの?」と尋ねようものなら「おまえは馬鹿か!」と返すしか知らない人が多いかも。いかが?

児童・生徒向けのnhk番組「いじめをノックアウト」だけど、いじめをノックアウトって凄い標題だ。喧嘩に負けて痛い目に遭ってる子の報復感情を理解できない訳ではないが、ともあれ敵をノックアウトできたら気分はスカッとするだろう。スカッとするのが目的なら憎い敵をヤッツケるに限る。しかし仲よくするのが目的ならイジメの味を覚えさせられた(苛めっ子の)被害者感情に配慮しないでどうするんだ?報復感情の発露がイジメになってるかも知れないじゃないか。日本の社会常識「報復は当然」とされる。なお私は「報復は駄目」というスタンスです。

報復は駄目か?報復は日本の社会常識か?あなたはこれにどう答えますか?私のブログ「Cat's Star 愛🐈彡」は公共の場ですから、誰でも反論・異論を述べられるし、それは当然の権利として私は認めている。反論が封じられているなら公共の場でない。すなわち、公共の場でいじめもノックアウトもない。意見を戦わせて世の良識に訴えればいい。世の良識を恐れ・逃げまわる者に公共意識は具わっていないと言えるのでなかろうか?公共の場で、あるいは公共の場に対してどんな意見をぶつけても一向に構わない。他者の意見を封じ込める態度に良識はあるのかな?

私の公共論・私の公共意識論・私の良識論…そういったモノを思いつくままに述べましたが、あなたと私は同じでなくても同じ方向を向いているなら、私たちは対立することなく同じ目的地へ向かい・近づいていけると思う。誰よりも早く目的地に一番に到着した人を尊敬すべきだろうか?スピード競争も構わないとは想う。だけど最後にゴールインできた人は落第なんてことにならないよね?最後まで愉しく歩んだ人の人生は充実しているに決まってるのだもの、自分の旅を愉しんだら最高~🚩 今回はここで「」ということにしておきます。🐈