進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

法~鏡or鑑 ㊦

哲学するところで深まるだろうなあ!だから「には浅深がある」と言えるのです。法の浅深はどこで生まれるか?あるいは、法の浅深はどこに具(そな)わるか?この質問の解答は哲学する人には見え見えですが、哲学しない人には難問です。しかも哲学する人にも見え見えの解答で満足する人あり、さらにもっともっと深く哲学する人がいる。だから「浅深の違い」が生れるのでしょうね。だから「鏡or鑑」の法にも浅深の違いが生れるのでしょうね。仮に浅い哲学の人は「上記のフレーズ」をみて盗み取ろうと考える。つまり利己の哲学の人は盗もうとする。そして、子どもの幸せを願う母親は利他の哲学に足を踏み入れる機会にすることが出来る。

利己の人は目先の利益に囚われるから哲学を深めることがない。目先の利益すなわち己の得になることばかりに執着して子ども・家族の幸せを考えない。そのような親(= 不良品の鑑)を持つ子は良品の鑑を別に手に入れることで幸せを得ることになる。その子は大変な作業をしなければならない。その大変な作業を悦べる子は哲学を深めて幸せの軌道へ入れて好いが、悦べない子は不良品の鑑に倣って齢を重ねることになって、つまり浅い哲学で人生を切り盛りするしかないから、その子の周りには自分勝手な浅い哲学を喜び受入れる仲間が寄ってくる。そのような集団がどうして苛めをしないで済まされるものか。これは起こるべくして起こった苛めです。

ともあれツルム仲間と一緒にいるのが目的なら苛めに加わるのが早いでしょう。そうでなくて幸せを自分のモノにするのが目的なら哲学を深める努力が欠かせないでしょう。ツルムためにはグループのボスに逆らわず・従がって付いていくことになり、幸せになるためにはグループのボスをあなたに従がわせるか、あるいはそのグループを抜けてご自分好みのグループを手に入れるべきです。どうするか・どうなるかは、各自の「法」が導く先に確実に見られる。ナチズムを友にしてユダヤ人を殺すことになった者たちのように、あるいは一人孤立しながらも多くのユダヤ人を救った杉原千畝氏のように。いずれの道も私たち一人一人の眼前の交さ路から伸びている。

今回私はそんなことを思いました。了。