進化する猫 🐈

猫も進化する‥それだけのことなんですニャ~ン😹

交さ路(14)/モモ⑬


いわゆる「教条主義」は疑問・質問を拒否・拒絶する。「おれ様の言いつけに黙って従え」とか、「教主の言葉に疑問を持ってはならない」とか、「党首の言いつけは絶対」と言うのは教条主義。だから「(従順なる)羊になりなさい」の思想/宗教は教条主義。この教条主義が黒人蔑視の思想などとして今も世界を横行している。哲学は「なんでや?」「どうして?」と質問する姿勢に具わる。「説明してもキミは分らんよ」と言うのは誤魔化し・詭弁(きべん)。「あんたがそんなに偉いんなら分かりやすく説明できるやろ」と追いつめる・・・これが「もの申す」です。低劣な思想に随ってはならない。

劣悪な思想をすり込まれたお子は可哀そう。親は劣悪な思想を子にすり込んではならない。これが分った親は劣悪な考えを叩いて責任を果たす。劣悪のマイナス面を見ようとしない親は劣悪な伝道者になって己の子に間違った思想をすり込む。お分かりだろうか?私のなかの一休さんの責任は何もかも私が取る。あなたのなかの一休さんの責任者はあなた。禅寺の一休さんの責任は誰が取るのか?エンデのモモの責任者はエンデだし、河合俊雄氏のなかのモモの責任は氏が取るべきだ。同じ理屈で伊集院光のなかのモモは受け身(=未成年者)ゆえに、伊集院光は子の責任をぜったいに免れられない。

私は満艦飾(まんかんしょく)を認めない。美味しい毒(麻薬・盗みetc⋯)を評価するのは構わないが、その評価の正当性を世間(の人々)に分りやすく伝えるべきでないか?「禅寺の一休さんでは駄目だ」と念を押して教えるべきでないか?チョロマカス一休さんを認めたらチョロマカス親がこの社会にイズレは増える。その結果、子どもたちは苦しむことになる。じっさい、現代社会には不正が蔓延っているのでないか?いかが?だから私は私のなかの一休さんが間違った道へ進まないよう教えているのです。(あなたはどうか知らないが)私は私の世界を是の哲学照らしたい。

エンデ流に語るなら、私の是の世界を灰色の男たちが奪うことは考えられる。しかし幾ら考えたところでそれは妄想に過ぎまい。エンデのモモか・河合講師のモモか、その違いまでは私には分らないが、モモは真夜中の時間とトラックの荷台上にいる時間の間で揺れている。これを私流儀に語るなら、真夜中の世界とトラックの荷台上の世界が暗転、ひっくり返る。但し暗転しようと・その儘(まんま)だろうと何れにしても私の世界のデキゴトなのです。世界の見かたが私(当人)のなかで変わっただけのこと。逆さに見れば逆さな世界になる。正当に観ればいいんだ。私はそう思うのです。

例えば、禅寺の一休さんは怒られるどころが「賢い賢い」と褒められて好いな・羨ましいな⋯こう感じるならそれはあなたの世界観が歪んでいる。歪んだ世界を広めた(私やあなたの)先祖(親たち)に染まったあなたかも知れず、歪んだ世界観を覚えてしまった人が多い所為で不幸な想いに囚われている⋯とも言える。世界観と言えば...子どものころ、私は蛭(ひる)が恐かった。下の画像はナマコ(口と肛門が付いている)ですが、蛭もナマコも似て見える。この蛭が私を呑みこもうと吸いつく…なんて思うだけでも恐ろしい。呑みこまれて私の体は溶けて消えてしまうのです!!!!!
2020/8/26.ナマコ

そんな恐がりの私が10歳のころ、蛭の世界を観てやろうと思ったのはナンデだろう?今から想うと、探究心と言うよりは世界制覇の精神に近かった気がする。何よりも恐れ・憎んでいた蛭ですからね・・・どんな残虐な行為も蛭だけには厭わなかったみたい。銀河鉄道999の線路を一か所だけ180℃捻って裏返してから出発点の線路に繋いだ・・・そんな感覚。表を走っていった列車がやがて出発点に近づいて戻ってきたのは確か、だけど近づいてくる列車の音だけ聴こえても裏を走る列車は見えっこない・・・SFの世界。異次元の世界を走る列車、同様に異次元の世界へ踏み入っていく子供の私。分かります?

視点を替えたらナンて事ないのにね?私の世界に裏も表もないのです。眼に見えない裏があると思うから神秘に思えるけど、蛭に吸い込まれて私が裏の世界に墜ちていくナンテことはない。子どもは残虐ですからね、私は蛭の口か肛門か分らないけど、いっぽうから箸ほどもある棒を押し込んだ。棒は反対側から出てきますからね。その過程で食道やら腸やら肛門が太陽の下に晒された。もちろん、今まで見えてた部分は中へ隠れて見えなくなる。いやいや、何のことやらお分かりにならないあなたは穏健なお人柄とお見受けします。太陽の下では表も裏もないのを確認できた経験・・・私には大きかった。

腸が面した側が蛭の世界なら?棒を突っ込まれた蛭の世界に今では太陽までも含まれている。私の眼の前の蛭は「受動から能動への転換」を物理的に為している。蛭のように痛い想いをしなくても(ひっくり返されなくても)、人間ゆえに、宇宙凡ては私の世界の中へ収まる。そんな感覚を掴めた一瞬・瞬間と言えるのでしょうね。こんなことを思っていて男女の世界ではドチラが居心地好いだろうかと考えてしまいました。私的には相手の人格を尊重する人物のほうが安心できるのですけど、それよりは面白さ・ネタ・持ち物の多さを吹聴したがる人物もじっさい多く居るのは確かなようですし、はて?  了。

2020_0825モモ/エンデ